ラグタイム(Ragtime)というジャンルがあることを知る人は少ない。
事実、Denkoが高校時代にラグタイムを知っていると言ったのは
たった一人だった。しかし、曲そのものを聞いたことはあるはずである。
これを聴いてみてほしい。
どこかで耳にしたことがあるだろう。
これこそラグタイムだ。この曲は「The Entertainer」といい、
ラグタイムの中でよく知られているもののひとつである。
The Enternainerの作曲者はScott Joplin(スコット・ジョプリン)という。
19世紀中半から20世紀初頭にかけて活動したアメリカの黒人音楽家であり、
ラグタイムの大家である。ここで
彼の生涯とともに、ラグタイムの歴史を語ろう。
19世紀半ば過ぎ、アメリカでは南北戦争が終わり、黒人たちは
自由を手にした。そんな中、1868年(日本では明治維新)、テキサスの
ある町でScott Joplinが生まれた。彼の父は三度の飯より音楽好きだったらしく
彼は父の影響を受けて音楽に興じていた。白人の音楽家からピアノを学んだ。
彼は二十代までは専らワルツやマーチを作っていた。これが後々
彼のラグタイムの基盤となる。
19世紀が終わるまであと10年というところ、アメリカ南部で新しい音楽が
出現する。とても楽しげで、足を踏み鳴らしたくなってしまう音楽だった。
その発生源は自由を獲得した黒人たちだったと言われている。(Joplinではない)
これを聞いた白人のクラシック音楽家たちは驚き、「ぼろぼろの音楽だ」と
言ったそうだ。(同時に卑下した)これがラグタイムの由来である。
メロディーをわざと表拍から外しシンコペーションを多用したのを
Raged time(ぼろぼろの音楽・時間)と呼び、それがRagtimeとなった。
これは黒人音楽と西洋音楽の融合とされている。
自由を獲得した黒人たちがクラシック音楽を学び、それと自分たちのDNAに
刻まれた鋭いリズム感覚が一緒になって新しい音楽が生まれたのだ。
Joplinもこれを取り入れ、作曲する。そして1899年。彼のMaple Leaf Rag
(メイプルリーフ・ラグ:カエデの葉のラグ)の楽譜が100万部売れる。
これはすごい!当時のアメリカは大陸横断鉄道があったとはいえ、
交通インフラは今よりずっと貧弱だ。しかも人口も今よりずっと少ない。
今でさえミリオンヒットする曲は少ない。だから当時のミリオンは
相当なものだ。これと同時に、ラグタイムが人々の間に深く浸透する。
(ちなみに、1899年はエジソンが蓄音機を発明した後だがまだ実用化の
前で、主な音楽メディアは楽譜だった)
Maple Leaf Rag出版のころのJoplinはセデリアというセントルイスに近い
アメリカ中央部の町に住んでいた。その後も彼はヒット作を次々に生み出す。
1902年 冒頭の
The Entertainer、1904年 The Cascades、
1906年 The Ragtime Dance、1907年 Gladiolus Rag、1908年 Pinepple Rag・・・
Joplinのラグタイム人気押し上げにより、有名無名を問わず
たくさんの音楽家たちがラグタイムを作曲した。アメリカ全土で
数千曲は作られただろうと言われている。
1908年にJoplinはセントルイスからニューヨークに移り住む。
彼には更なる野望があった。
彼はラグタイムだけでは満足せず、オペラにも進出した。
Treemonishaという作品で、彼は相当力を入れた。1911年のことである。
ところが、誰も見向きもしなかった。これにより彼は相当な精神的ダメージを負い、
体調を崩した。話によれば梅毒にかかったという。
その後彼は以前ほど曲を書かなくなった。そして1917年、49歳で死去。
神様のいたずらか、夏目漱石が生まれた次の年に生まれ、死んだのも
漱石の死の一年後であった。
Joplinの死後、ラグタイムは急速に廃れていく。
だがラグタイムはJazzへと発展し、次の世代の音楽をつくることとなる。
(Denkoの気に入っているアーティストの一人、Jelly Roll Mortonは
ラグタイムからJazzへの過渡期に活躍した)
そして戦後になってJazzはエルビス・プレスリーなどにより
ロックへと枝分かれし、ビートルズへつながっていく。さらに
このロックが日本へと持ち込まれ、J-POPが生まれた。つまり、
ラグタイムは今のポピュラーミュージックの直系の
子孫なのだ。100年以上昔、自由を得た黒人たちが生み出した音楽は
次々と派生を生み出し、今の音楽を作り出した。
ラグタイムは今も我々の周りで確実に生きているのだ。