のと鉄道穴水〜蛸島 廃止後の姿



2005年5月3日


惜しくも2005年3月31日を最後に廃止になったのと鉄道穴水〜蛸島。あれから1ヵ月後の様子を見に行った。






鉄研仲間と3月29日に最後ののと鉄道を見に行った時と同様に、7時に金沢を出て能登有料道路を終点まで行って能登空港に寄り、9時ごろに珠洲市に入った。




スカッと晴れているが、このとおりほとんど人がいない。





中ももちろん人がいない。一日2往復では無理もない。


まず珠洲道路の終点近く、珠洲から2駅宇出津寄りの上戸から











小さな駅だが、懐かしさや暖かさ、安らぎを感じる。言うまでもなく列車は来ない。レールの錆がそれを物語っている。

ホームから線路に降りる。レールは思ったより細い。バラスト(レースの下に敷いてある石)を一つとり、レールの上に置いてゴシゴシこすってみる。こうでもして、少しでもレールに命を吹き込もう。
列車が来ることなどないと分かっていつつも。

線路を歩いてすぐのところに、踏切がある。遮断棒は撤去されているものの、レールと道路が交差する部分はまだアスファルトで埋められていない。だが、踏切を通る車は一時停止をしない。もうここは「踏切」ではないからだ。




上戸の珠洲寄りには前述の「死んだ」踏切があり、そのさらに先には鉄橋への侵入を防止する柵がある。線路は赤茶けていて、太陽に照らされても輝かない。


桜はとっくに終わり、駅の木々は深い緑色の葉から日光をもらしていた。これらの木々は能登線開業の日からこの鉄道をり、たくさんの人々を迎えていただろう。



ここ上戸から終点蛸島へ直行する。

蛸島には穴水蛸島間が営業を終えると同時に任を解かれたNT100型気動車数両うちの2号機が留置されている。このNT100型の2号機はのと鉄道開業時に製造され投入されたもので、製造後まだ20年経たない。

鉄道車両は一般に30年以上もつと言われるのでこのNT100は短命なほうだが、この気動車は赤字とどうしても縁が切れない第三セクター鉄道用ということで製造コストを抑えてあり、多少つくりが弱い。こんなわけで早々と蛸島駅で第二の人生を送っている。




NT100の2号機の居場所となった蛸島駅。2号機はまだ幸せなほうで、何両かは廃車解体という憂き目にあうことになっている。





おまけ:行き先表示幕は自由に換えることができた。「急行 輪島行き」というなつかしいものが出てきた。



留置されている気動車の中には自由に入ることができた。





この写真だけを見れば、現役時代となんら変わらない。ここを流れる空気も、時間も、以前と同じである。





運転席にも立ち入ることができた。蛸島から先へ延伸する予定だった鉢ヶ先方向を望む 運転台のブレーキレバーがないこと以外は現役時代と同じだろう。





駅から100メートルほど珠洲方向に歩いて振り返る 駅に列車が止まっているのにその線路が赤いというのはなんとも奇怪な風景である。




次は珠洲へ 町はすっかり静かになってしまった。





ここも線路以外さほど変化がないように見える。だが、何か妙なものを感じた。
われわれのほか誰もいなくて、駅全体がゴーストタウン化したような虚無感というのか、今までの珠洲駅には決してなかった空気を感じたのだ。この日は晴れているからまだしも、雨の日のこの駅はどんな空気が漂うのかと思った。





ただ突っ立っているだけの信号機 この風景は何度見ても変らない。



ここであることを発見した。なんと、いくつかの転轍機(ポイント)は切り替えられる!レバーを握り、力を入れて引っ張るとズズズズ、ガタッと切り替わる。





操作できるポイントレール それにしても静かだ。列車が来なくなって、ずっとこの調子なのだろうか?



珠洲駅のとなり、飯田駅は飯田高校の最寄りであり珠洲市の中心には珠洲駅より近く、急行も停車した駅である。

飯田高校に通う生徒を中心に朝晩は賑わった駅である。彼らは今年度からバス通学となる。駅前にいくつか商店があるが、廃止の影響はかなり大きいだろう。もう廃業してしまった店もあった。





ホームから駅舎を見下ろす



鵜飼はのと鉄道開業後に交換設備を設けるとともに駅舎を建てた駅で、鵜飼地区の中心であり駅のとなりには鵜飼高校がある。新しいホームや駅舎を残したまま列車が来ない駅になってしまった。

真っ白なホームを晩春の太陽が照らす。駅には我々しかいない。列車の汽笛も、ガタンゴトンという音も、もはや聞こえてこない。





空には遮るものがひとつとしてなく、抜けるような青さだった。駅のとなりの鵜飼高校から球児たちの掛け声が飛んできた。






これでレールの輝きがあれば言うことなしだった。





鵜飼駅の駅舎 九十九湾小木と似たつくりで、洒落ている。地域の憩いの場でもあるようだった。今後取り壊さないでいてほしい。



鵜飼からさらに西へ、3月29日に回れなかった駅を回る


小さな駅(交換設備のない駅)は皆、駅のつくりが似ている。しかし、全く同じではない。駅それぞれが持つ「空気」と言えばよいのか、何か不思議なものを感じた。





南黒丸 ここの駅名板は妙に新しい






鵜島

写真からも分かるように、集落を挟んで向こうには海がある。空の青と海の青が一体になっているせいか、現地では気付かなかった。





鵜島駅のホームには駅が開業した年すなわち能登線が蛸島まで全通した年である1964年の刻印が。






駅のすぐ先のトンネルは柵でふさがれていた。廃止後はどの路線でもやる処置とはいえ、やはり悲しいものだ。





ちょっとした峠を越えて旧能都町、現在は合併して能登町へ





能登町の中心駅、宇出津駅 もう役目を終えた 「半島の 夢乗せ走る マイレール」 が泣かせる。


もう列車は来ないにもかかわらず、駅の待合室には地域の人々が集まっていた。
これは、のと鉄道が誰にとっても単なる移動手段でないことを意味するのだろうか。


さらに西へ。





古君

この駅にたどり着くまでに、養鶏場に突っ込んだり行き止まりにぶつかったり、ちょっとした「冒険」をした。そのため、駅についたときには皆多少の歓声を上げた。たまにはこういったものも面白い。






前波

この駅はおそらく、のと鉄道の波と付く駅で唯一海が見えないところにある駅である。それなら、こっちが本当の「沖波」ではないか?






沖波駅のホームを降りたところ

ほとんどの駅に山桜が植えてある。それが今、満開である。これらの木々の40回目の春が「最後の春」だった。


途中、バス停を見つけた。のと鉄道の廃止・バス転換後なのだからある程度は本数があると思ったが、






なんと、日に3本しかない。



ちょっとした高原のような高台を走る線路に沿って、さらに穴水方向を目指す。






沖波

だいぶ内陸に入った感じがする所だが、ここからは海が見える。





このように、のと鉄道穴水〜蛸島間にある小さな駅のいくつかは小高いところにある。そのため、近くの集落から駅に行くにはお年寄りには厳しいだろう。



沖波からいくらか内陸部を進み、入り江に面した町についた。ここを兜地区という。だが、駅名は「甲」である。字が違うだけだが、これには何かエピソードが隠れていそうだ。




駅そば屋などで使われる自動券売機を使った券売機 のと鉄道の主要な駅に設置してある。

この駅に限らず、無人化して久しい。「中部の駅百選」のポスターがなんとも言い表せない寂しさを感じさせる。のと鉄道の駅ももちろん含まれていた。






午後の日が差し込み、ゆったりとした時間が流れる待合室 ここで一日中過ごしても飽きることはないだろう。



甲の次は鹿波。ここも白丸と同様、秘境駅とされている。






確かに、駅周辺には何もない。夜なんかは完全に真っ暗になりそうだ。ただ、白丸とは違って、周囲にはいくらか水田があるので、多少は生活感がある。





白丸と同様、インターネットで秘境駅としてのこの駅の存在が知れ渡った。





ホーム上から見た雰囲気は他の駅と変わらない。





待合室にはフィギュアとともに「のと鉄道のと線絶対存続!」の書置きが。紙はパソコンのプリンタで印刷されたものの再利用らしく、書置きの主もインターネットでこの駅を知って訪ねてきたに違いない。






駅の近くには電話ボックスのような用途不明な小屋が。やはりこの駅は白丸より人のにおいがする。



鹿波を出て穴水を過ぎたころ、夕方4時を過ぎていた。もう金沢に戻るのによい時間だが、まだ行くべき所がある。



この日は能登中島でイベントがある。甲からの移動が終わったオユ10や<珠洲から安住の地を求めてはるばるやってきた恋路号を見るのもかねて能登中島へ。





ここ能登中島はもちろん現役の駅である。この日はイベントのため、にぎわっていた。



向こうのホームへ渡れば、鉄道模型の展示や各種グッズの販売があった。そのとなりには、安住の地に移住し第2の人生が始まったオユ10や、のと恋路号が仲良く並んでいる。 (オユ10についてはかなり前にに引退し甲をすみかとしていたので「第3の人生」と言ったほうが正しいのかもしれない)





こちらがオユ10





こちらがのと恋路号 何か物足りない感じがする。そう。フロントガラス下の「のと恋路号」のレインマークがない。





現役時代ののと恋路号には遂に乗ることがなかった。のと鉄道の看板列車だったが、廃止にまでなったのが悔やまれる。


昭和30〜40年台、大阪から和倉温泉まで直通列車が走っていたように、恋路号が大都市まで直通すればのと鉄道の経営状態も変わっていたかもしれない。

それにしても、いい車両である。サロンスペースあり、セミハイデッカー構造と能登の景色を楽しむには一番であろう。





恋路号の運転室も蛸島のNT100と同様、入ることができた。こちらはブレーキレバーが外されていないだけでなく、運転時刻表もセットしてあり、より本物の運転室に近い。






オユ10の中も公開していた。中では現役時代にどのような作業が行われていたか、説明があった。それによると、郵便車の中では郵便物を県別まで分けていたそうだ。
また、駅に着くまでに仕分けを終えなければならないこと、夏は暑くても郵便物飛散防止のため窓を開けられなかったことなど郵便車での作業は激務だったことや郵便車で仕分けをしたときに押されるスタンプのことなど、裏方の話も聞けてなかなか面白かった。


最盛期は日本の郵便物の大半を輸送していた鉄道郵便も、いまや完全に絶滅した。



帰ろうとしたとき、列車が来る。






列車はこの春にデビューした新車であるNT200型の2両編成。老朽化したNT100型を置き換えるために投入された車両だ。

NT100が短命だった原因は海に近いところを走っていたことも関係するらしい。また、NT100は冷暖房を入れながらだと25パーミルの上り勾配(1000メートル進んで25メートル垂直に上がる勾配・鉄道にとってはきつい)を上りきれないことがしばしばあったそうだ。

この新しいNT200は350馬力で、NT100の250馬力よりパワーアップしているのでそんな心配はなさそうだ。



駅に着いたこの列車は、しばらく停車した後汽笛を鳴らし、力強く加速して走り去っていった。どうかのと鉄道に新風を吹き込んでほしい。







こうして、春ののと鉄道の旅は終わった。

列車が走らなくなってからまだ数ヶ月しかたっていないのでまだ現役時代とのギャップは小さい。だが、そのうち草が深くなり、さらには線路が撤去され、人気が少ない駅は自然に帰っていくことだろう。

僕の机の上には、穴水発蛸島行きのある列車の運転時刻表がおいてある。毎晩、穴水、中居、比良、・・・・・・・・・珠洲、正院、蛸島という駅名の並びを見るだけで、その駅や周りの風景、列車が頭に浮かぶ。これほど魅力を持った鉄道は、ほかにそうないだろう。

とうとう能登地方の鉄道は穴水を北限にブツリと切れてしまい、鉢ヶ崎への延伸など夢のまた夢となってしまったが、我々の思い出の中ではいつまでも走りつづけるのである。

のと鉄道の残りとなった和倉温泉〜穴水間の将来を案じつつ、穴水から先は夢でも見るとして、のと鉄道春の旅の語りを終える。


END


Back