4年前の3月31日は、のと鉄道の穴水から輪島の最終営業日だった。あの日、穴水から蛸島も廃止になることを考えていた人はいただろうか。筆者は考えていなかったし、そうなってほしくなかった。しかしどちらにせよ、廃止は現実のものとなった。
29日の日程
金沢(7時集合)--車(能登有料道路など)-->
松波(10時3分)
-->
列車(125D)-->
蛸島(10時31分)-->
--徒歩-->
珠洲(12時29分)--列車(220D)-->
恋路(12時44分)-->
徒歩-->
松波-->
車で駅めぐり(松波の隣の九里川尻から鵜川まで)-->
車(能登有料道路など)-->
金沢(18時ごろ)
3月29日
この日は朝7時に金沢駅に集合、鉄研仲間とともに車で松波へ。たまにしか対向車がこない能登有料道路をすいすいと進む。
松波に着いて、蛸島行き列車に乗った。最終日の2日前とだけあって、たくさんのファンが乗っていた。
松波駅駅舎 内浦町(現在は合併して能登町)の中心駅だが、活気がない。
ホームから穴水方向を望む
のと鉄道は穴水〜輪島を廃止も利用客減少に歯止めがかからず、赤字が膨らんでいった。そして2004年春ごろから穴水〜蛸島間の廃止の話が出てきた。
その夏、正式に廃止決定。最終営業日は2005年の3月31日と決まった。意図があったのかなかったのかは分からないが、前述のように穴水〜輪島の最終営業日と同じである。
ホームから見た駅舎 観光客がいないのに「歓迎 ようこそ内浦町へ」という幕が泣かせる 昔はにぎわったろうに・・・
正面から この駅舎は開業時のままのものだろう。
駅舎の脇の草むらにはこんなものが
穴水方向 向こう側のトンネルの向こうも見える のと鉄道能登線にはこのようなトンネルがいくつかある。
よく見れば、ファンに混じって地元の人も乗っていた。そのほとんどは高齢者と見えた。
みな、若いころに能登線の開業の喜びを味わっていただろう。その鉄路はこの2日後に消える・・・・・・
蛸島に着いてしばらく列車を見て、珠洲へ向かって歩いた。蛸島には切符やカレンダーなどのグッズが売られていた。皆入札品で、31日に落札者の発表をすると書いてあった。
珠洲の隣の正院 切符売り場はふさがれ、人の気配はない。「院」の字が欠けている
切符売り場は板でふさがれ、駅舎の戸には穴が開いていた。この駅で最終列車を見送る人はいるだろうか・・・・
駅名板 蛸島と同じく国鉄時代の生き残り品
ホームの上から珠洲方向を向く
蛸島から3キロ半を歩き、珠洲へ。歩いている途中空模様が怪しくなり、ついには雨が降り出した。それほど強くなかったのが幸いだった。廃線の悲しみの雨だった。
珠洲にはホームセンタームサシなどができて町に活気が出てきたように見えた。ただ、人口は2万人を割っている。
珠洲駅駅舎 駅前の車は数えるほどしかなく、見送りもいない。
能登線で使われていた腕木信号機 前より錆が増えたか
国鉄時代からの生き残り よく整備されているのか、美しい。
穴水方向を向いたところ ここの眺めは6年前に比べてほとんど変わっていない。
ここで昼飯の後、珠洲から列車に乗る。この列車もレールファンでいっぱい。
蛸島からやってきた貸しきり列車「やすらぎ」 これもいずれ乗ってみたい
「やすらぎ」と我々が乗る列車が並んだ
たくさんの人にもまれながら、恋路へ。駅がなくなれば、ここも忘れられてしまうのだろうか。名物の駅がまたひとつ消える
恋路駅全景 のと鉄道の小駅の半分以上はこのように小高いところにある。
駅の下の道に下りたとき、松波で交換した蛸島行きが来た 我々が乗ってきた列車が去ってから数分もしないうちに来たので最初は驚いたが、交換駅の松波は隣駅だということを思い出して、納得した。
冷たい風が吹く中、恋路から松波へ向かって歩いた。歩くといっても1キロ強であり、さほど疲れない。
歩き始めて多少雨が降り始めた。急いで松波に行き、車に戻ると雨がやんだ。神様も意地が悪い。
恋路海岸から見える弁天島 干潮のときは島へ歩いて渡れるらしい。
松波に戻ってから、車で金沢に戻りつつ<時間が許す限り、のと鉄道能登線の駅を巡る。まずは松波の隣、九里川尻から。
ここの近くに能登少年自然の家がある。Denkoはそこに小学6年のとき合宿で泊まっている。この駅も見た。
次は秘境駅として知られる白丸。駅に続いているとは思えないような道に入った。
駅のそばの歩道橋から あたりは林と荒地のみ 人家は一切ない
後から白丸の集落を通ったのだが、集落は海に面したところにあった。一方、白丸の駅は集落からかなり高いところにあり、駅に行くだけでくたびれそう。利用者の多くを占めると思われる高齢者にとっては厳しい。
利用者は一日どれぐらいだろう
次は九十九湾小木 のと鉄道に移管して能登小木から改称された。九十九湾への最寄り駅。
しゃれた駅舎が旅心を誘う。同じような駅舎は鵜飼にもある。廃止後、駅舎はどうなるのだろうか。
駅名が語っているように、大小多数の入り江からなる九十九湾の最寄り駅である。筆者はまだ行ったことがない。のと鉄道の気動車に揺られて行きたかった。
珠洲方向 かつては観光客でにぎわったことだろう。今となっては当時を想像するのみである。
トンネルを抜けると縄文真脇。
だいぶ朽ちた駅名板
5年ぐらい前に真脇の温泉から列車を見た覚えがある。夕日が照る海をバックに、エンジンをうならせて気動車がやってきた風景を、今でもよく覚えている。それを思い出すと、急に今までに増して廃止の無念さがあふれてきた・・・
松波からずっと、道路と少し小高いところを走る能登線が寄り添って海岸線をたどる。この風景は能登の内浦の名物だった。
縄文真脇から少し進んで小浦 ここも少し高いところにある
この駅や隣の羽根駅など、能登線の小さな駅は集落から多少上ったところにある。地元のお年寄り、高校生が主要な利用客であろう。
羽根駅 恋路駅と組んで美しい響きの駅である
トンネルを抜けると、目の前の町並みが広がる。奥能登の主要な町のひとつ、能登町(合併前は能都町)だ。能登線は昭和35年に能都町の中心駅、宇出津まで開通した。
以後昭和37年松波まで、終点蛸島へは昭和39年すなわち東京オリンピック開催の年に達した。それから40年余。能登ブームも昔話となり、すっかり客が減ってしまった。それだけでなく、能登半島全体が寂しくなってしまった。
そして、2005年3月31日を迎える。
能登町(旧能都町)の中心、宇出津駅
珠洲方向 ここの風景は開業以来変わっていない
宇出津駅の名の由来は二つ説がある。
ひとつは、奥能登は海岸部から少し内陸入ると高原状になっており、そのため昔から牛の放牧が盛んであり(今でも能登牛は有名)その牛を出荷するための港つまり”牛津”からきているという説と、漁をしていたアイヌ人が台風か何かで能登半島まで流され、彼らが漂着したときどこかの港を見て”ウシュリ”(アイヌ語でたくさんの湾がある港:九十九湾のことか)と言ったのが変化したという説である。
ここで多少休憩の後、さらに西へ。宇出津から数駅は道路と線路の高さがだいたい同じになる。言い換えれば道路の隣窓から見える位置に線路が寄り添う。
藤波 ここで蛸島行きの列車が来た。3両ともたくさんの人が乗っていた。もうラストスパートは始まっている。
波並 二文字とも訓読みすれば「なみなみ」である。この駅とその前後は駅名に波が付く。また、目の前が海である。こんなところは全国探してもなかなか無いだろう。
矢波
矢波駅は波並駅とともに国道、海沿いにある。
七見はのと鉄道転換後に開業した駅 まだ新しいのに廃止だ
帰宅時間が迫っているので多少内陸部をショートカットし、鵜川へ
ここに限らず、のと鉄道沿線の町の中には鉄道の開通とともに発展した町もあるだろう。この鵜川もきっとそうだ。
鵜川
ここは最初に能登線が開業たときの終点だった。
左に見える古い建物は鉄道職員用宿泊施設だろう。もう何十年も使われていないらしく、空き家のよう。
すぐ隣は山地。サルやイノシシでも出そうだ。
そして二つ先の比良。
比良はのと鉄道転換後、交換設備が設けられた。
穴水から列車が来る。やはり人でいっぱい。
今日はこれで終わり。穴水の隣、中居。
中居駅 筆者はこの年の夏、この駅の変わり果てた姿を見ることになる。
3月29日の訪問はこれで終わり。
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