のと鉄道穴水〜蛸島 最後の夏



2004年6月4日


6月5日、この日はよく晴れた。天気予報では入梅かと言っていたが、それはしばらくあとになりそうだ。7時過ぎ、金沢を出発した。


途中内灘駅や能登有料道路の高松PA(道の駅)で仲間を増やし、総勢約15名となった。青くかなたまで広がる日本海がまぶしかった。その反対側には、宝達山が見えた。

ガイドによれば宝達山は石川県と富山県の県境にあり、かつては名前のように宝の山だった。金や硝石(火薬の原料のひとつ)などが採れたからであるが、あるときの地震で坑道が崩れ、それ以来採掘をしていないらしい。今は石川県や富山県の水源となっている。


1時間半ほどして有料道路の終点に達し、まず3年前の春に廃止になったのと鉄道七尾線の穴水輪島間の駅へ向かう。あれからどうなっているだろうか・・・





能登三井駅駅舎 これだけ見ると廃止前と変わらない


穴水から1駅目の能登三井駅は、線路がないこと以外は廃止前と変わっていなかった。

駅の中の喫茶店、「杜の駅」は今も営業している。しかし、経営者の谷内さんによれば、客はだいぶ減ったという。以前は輪島や穴水から来る人は皆、駅を使ったが鉄道廃止でバス転換してから客は各停留所で降りるので駅に集まらないからだという。

だが、谷内さんは店を続けるそうだ。駅構内はレールと枕木が撤去され、草が生えていた。ホームや駅名板はそのまま残してあった。この駅は店が続く限り、この状態で残るだろう。




駅舎の中 左の窓が喫茶店「杜の駅」





ホームから降りて輪島方向を向く 線路が撤去されてからは、草が生えるのみとなった




廃止前と変わっていない能登三井駅 駅名板もそのまま


ちなみに、廃線区間の線路は全部撤去したらしいが、そのレールは中国に輸出したそうだ。






次は能登市ノ瀬駅。ネットのうわさではだいぶ荒廃が進んでいたらしかったが、そのとおりだった。駅名板は盗まれてなくなっており、駅舎の入り口のドアには鍵がかけられていた。駅舎の撤去は時間の問題であろう。





ホームから見た駅舎 草ぼうぼう





駅前広場の様子 隣のバスは我々が移動に使ったバス





駅名板は持ち去られなくなっていた





穴水方向





輪島方向



そして終着の輪島駅。





前の古い駅舎は取り壊され、道の駅となっていた。


この駅が最も大きく変わった。鉄道があったころの面影は既に無かった。鉄道が無くなり、町は衰えたのかと思ったが、実際はどうなのだろうか。日本航空高校が輪島に移り、少しは持ち直したのだろうか。




道の駅の中にあったモニュメント 奥は列車のパネル




数年前も見えた「次はシベリア」の駅名板 状態からするとレプリカか


道の駅の中には「次はシベリア」で有名な駅名版、10mほどの線路とホームが残されていた。自分が3年前にここに立っていたことを思い出した。


道の駅の横の、かつて線路があったところに行ってみる。




信じられない、それしか言葉が無かった。線路があったとは全くわからないほど変わっていた。(写真の植え込みが線路跡)


のと鉄道穴水〜輪島の輪島付近はだいぶ再開発が進み、それ以外の区間ではまだ叢(くさむら)だった。これらの区間はどうなるのだろうか。サイクリングロードにするという話もあるが、予算上難しいだろう。



輪島を出て、外浦の道を行く。塩田や千枚田などを見た。それらについては、今は略す。今回はじめて知ったのは、「ゴジラ岩」だ。

ゴジラ岩は木ノ浦海岸の近くの海岸にある高さ約4メートルの岩で、ある角度で見ると今にも火炎放射をしそうなゴジラに見えるという。

バスからはよくわからなかった。後からパンフレットの写真を見て、本当にゴジラそっくりだと思った。奥能登に行ったら、ぜひ見よう。




千枚田




塩田と海水を煮詰める小屋




向こうには七ツ島が見えるはずだが・・・




禄剛崎(ろっこうざき)灯台と「能登半島最北端」の表示




条件が整うと彼方に佐渡が見えるそうだ


外浦と内浦の境界であり、能登最北端である禄剛崎灯台に寄った後、のと鉄道の蛸島駅へ。




蛸島駅を使う高校生の自転車が並ぶ蛸島駅前


のと鉄道の全身前身である国鉄能登線が蛸島まで開業したのが東京五輪が開かれ東海道新幹線が開業した昭和39年(1964年)であり、今年は開業40年目である。

だが、今年はのと鉄道能登線の最後の年でもある。(厳密に言えば、来年の春までなのだが)それにしても、全通からたった40年で廃止とは、悲しいものだ。




蛸島駅ホームから宇出津方向を望む





ついにこの先へレールが伸びることはなかった




ホームから見た駅舎 国鉄時代からの生き残りの「たこじま」の駅名板がいい味を出している


のと鉄道には全く日が当たらなかったわけではなく、数年前まで蛸島から狼煙(のろし・禄剛崎の近く)付近あるいは鉢ヶ崎まで延長しようという動きがあった。

しかし、それは実現しなかった。




この駅名板に次の駅のスペースがあるのが、寂しさをより感じさせる。


これから我々が乗るのは穴水行き220D、蛸島発12時21分だ。列車が来るまで、しばらく駅を歩き回った。車止めから見るとこの駅は中間駅のように見えた。




蛸島駅 車止めから






そして列車が来た。単行(1両)だった。発車でしばらく時間があるので、線路に降りて運転手さんとファンサービスとして記念撮影。とてもうれしかった。





皆で記念撮影 この中の誰かが筆者







蛸島駅発車前の車内


ほとんど我々の貸しきり状態で、12時21分、発車。気動車は軽快に加速し、正院、珠洲へ。




珠洲駅発車


珠洲からは地元の高校生が数人乗ってきた。飯田高校や珠洲実業高校の生徒であろうか。車内はにぎやかになった。

彼らは、来年ののと鉄道一部廃止をどう思っているのだろうか。バスのほうが便利そうだというのか、それとも列車がいいというのか、

いずれにせよ、能登は少子高齢化が進んでいて高校も統廃合し、若者は減る一方であり、ここままでは先は明るくない。




鵜飼に到着 のと鉄道移管後に列車を交換できるようにした駅のひとつ


鵜飼からリアス式海岸沿いを走るようになり、トンネルやカーブ、急勾配が増えてくる。そのため今まで直線では70km/h出せたディーゼルカーも、40km/h台になった。




松波で列車交換


松波で珠洲行きと交換し、九十九湾小木(つくもわんおぎ)、縄文真脇と進む。それらは有名な観光スポットだ。前者は大小99の入り江からなる海岸で、後者は縄文時代の遺跡と温泉である。機会があればまた行きたい。




宇出津駅 のと鉄道の本社がある


途中の小さな駅で、地元のおじさん、おばさんが降りていく。そののどかな光景を見られるのもあと1年。




藤波、矢波間。線路と道路と海岸線が並行するのと鉄道有数の景勝地。この辺の駅は「波」がつく


藤波、矢波付近からから海を見ると水平線に立山連峰が見えるそうだが、この日は見えなかった。


のと鉄道の本社があり、能登町の中心である宇出津を過ぎると、海岸を離れる。

能登の丘陵地帯を貫くため、ここもトンネルやカーブが多い。そこから9駅目の甲(かぶと)は日本でたった2両しか残っていない郵便車がある駅だ。ボランティアによってきれいに整備されている。




甲駅に到着




甲駅駅名板




日本で2両の生き残りのうちの1両の郵便者「オユ10」




甲の次の中居で列車交換 ここも鵜飼と同じくのと鉄道転換後に交換設備が設けられた。


中居で2度目の列車交換をした後、ほとんど我々の貸しきり状態で穴水へ。市街地に入る手前で3年前廃止になり、我々が午前中にその駅跡を見学した旧のと鉄道七尾線輪島〜穴水が寄り添い、穴水駅0番線に滑り込んだ。ここからはバスで金沢に戻る。




穴水駅の手前 右の線路跡は輪島方向のもの




穴水駅に進入 絵になる駅だ




穴水到着




穴水駅の駅名板 すでに廃止となった「のとみい」はふさがれている。来年は「なかい」もふさがれてしまう。


20年前、大赤字の国鉄再建のために全国から赤字83線区が消えた。(その中に能登線も入っていた)

あれから20年、可部線可部以北、南海和歌山港線、日立電鉄、北海道ちほく高原鉄道(廃止予定)など、ポツポツと廃止になる鉄道路線が出てきた。のと鉄道穴水以北もそのひとつである、




レアモノになろうとしている乗車券




穴水駅駅舎 来春からはここが終点





帰りのバスの中、まどろみかけた頭の中の自分は、金沢駅4番線に立っていた。急行能登路1号で輪島に行くためだ。

確かあれは初めての鉄道旅行で、小学6年だったかと思う。鉄道で知らないところに行くというのがどれだけ楽しみだっただろうか。

金沢から2時間半ほどで輪島に着き、さあ、朝市に行こうとしたとき、俺ははっと気付いた。

もう輪島駅は無かった。

急行能登路号も無かった。

初夏の太陽が真新しい道の駅を照らしているだけだった



END

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